について考えています。
先に書いた「またかよ朝●龍」に通じるハナシですが、つまるところ「日本人の精神文化」にまで掘り下げられる深い深い(京都人は2度繰り返す)テーマなのである。
小生、そもそもプロレスが好きで、今から20数年前「週間プロレス」創刊号(それまでの月刊誌からリニューアル)にまで遡る。猪木VS馬場世代よりもちょっと後ですが、何と言っても初代タイガーマスクに感化され、毎週金曜日の夜8時が楽しみであった。そんで「週間プロレス」なる雑誌でよく、「格闘技」「武士道」「日本人の精神論」などについての論評がなされていた。
当時の編集長、ターザン●本なる人物が、編集長の立ち場を利用して好き放題、それは偏りまくり(!)ともいえるような論評を紙面で展開し、時々にプロレス、格闘技関係者と議論を戦わせ、ある時は決裂するなど、週プロ紙上で語り、論じ尽くされ、それはもう読者が洗脳されてしまうような「危なかっしさ」が読む者を魅了し、引き込んで行った、と思っている。
そこで展開されていた内容とは、プロレスにしても格闘技にしても、その根底、背景にあるものは「日本人の精神性=精神文化=武士道」なる論評だった。では、武士道とは何か、というと「常に死と隣り合わせ」の状況でも、取り乱す事なく、静かに其の時(=死の瞬間)を迎えよ、ということ。
現在、スポーツの世界で展開されている試合は所詮「勝ち負け」の優劣を競うものであって、江戸時代の武士が命を賭けて果たし合う(決闘=死闘)ものには遠く及ばない、という論評。
要するに、負ければ即死につながる武士の決闘とは、当然ながら「かなりの覚悟」が必要であり、勝ち(生)負け(死)とはそれほど重い重いものであった。そして勝った側は、負けた相手とその家族を思いやり、決して勝ちを誇示したりせず、勝てた(生きる事ができた)ことを静かに謙虚に神に感謝する。
こうした精神性がおそらく日本人のDNAの中には刷り込まれていて、現代のスポーツの中にも求める傾向がある。「勝って奢る事なかれ、負けて腐ることなかれ」「勝って兜の緒を締めよ」など、こうした言葉は日本人の多くは理解し、好む。
日本の社会、世の中は戦後60年以上経って、欧米文化が生活の中心になっている現在、古き良き「日本的」なるものに郷愁を抱きながら日々生活している。野球やサッカー、バレーボール、ゴルフ、テニスにバトミントン、水泳、スキーなどなど、そのどれもがスポーツ、競技としてメディアを通じて観戦できる。
特に国際試合は野球(WBC)でもサッカー(ワ−ルドカップ)でも見る側の意識が高揚して興奮(エキサイト)するし、オリンピックがその最たるもの。そして、世界を相手に日本(人)が勝てば選手も観客も大手を振って喜びを表現する(のがある意味自然の姿)。しかし、そうした中でも感情を表に出さず、厳しい表情を崩さない「イチロー」やハンマー投げの「室伏広治」のような存在を目にした時、「はっ」と我に返り、じわじわと感動を深めさせてくれる。
逆に、相撲の場合、憎らしいほど強い朝青龍が「勝って当然」のように振る舞い、堂々とガッツポーズをする姿を見て、心のどこかで素直に「受け入れ難い」気持ちにさせられる。また、あくまで個人的見解だが、柔道の試合で勝った選手がたびたびガッツポーズをしている姿にも違和感を覚える。
そうして考えた場合、観る側(観客)が欧米生まれの競技やスポーツに求めるものと、日本古来の相撲や武道に求めるものが「違う」という結論に至る。スポーツで選手やアスリート達がガッツポーズをする姿を見て「清々しく」感じても、相撲の力士や柔道など武道の選手がガッツポーズをする姿は武士道精神に反する(敗者に敬意を払っていない)行為に映る。
つまり、相撲や武道=柔道、剣道、空手(沖縄生まれか)などはスポーツのカテゴリーとは一線を画すべきである、というのが今日のお題のひとまずの結論なのだ。
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